今回はイスラム・アラブ特集をします。彼らの生活、習慣、考え方などは、「さすがに世界は広いものだ」、と変な関心さえしてしまいます。アラブの人たちを理解するには、まずイスラム教を理解しなければならないのでしょう。ちょっと覗いてみます。
イ スラム教の人々は何がなくても「アッラー」と「コーラン」です。小学生がちょっとぶつかったからと喧嘩する場合にも、「コーランに誓って」とか「ムハンマ ド(預言者)だって、僕の言うことが、正しいと言っているぞ」と神の思し召しを引き合いに出します。だから、大人の喧嘩はもっと大変で、「お前の家族は 100の罪を着ている」と言うと、相手は「お前のところはその倍だ」とやり返し、また「その倍の倍の倍」とか喧嘩をします。野次馬たちもまじめに二人の言 い分を聞いたりします。なぜアラブ人が自分の正当性を主張することに固執するかというと、イスラムの論理からすると、自分を含めた全ての人間の存在は罪 深く、だから自分はその悪を精算するために、こんな善行をしている、何故に、その善行にケチをつけるのだ、ということです。
また、アラブ人はお しゃべりが大好きで、その雄弁たるや前述の喧嘩のごとくです。だから、例えば国家元首が、1回の演説を30分間で終わらせようものならば、それは国民から 軽蔑の対象となります。どうりでカダフィ(リビア)もナセルもムラバク(エジプト大統領)も2~3時間は平気で演説するはずです。
そう いうアラブ人と商売をするとどうなるのでしょうか。契約はいとも簡単に破棄されます。過去日本の会社がサウジアラビアの石油開発の契約について一方 的に契約破棄を受けましたが、そのときのサウジの言い分は「これは契約破棄でない。開発計画そのものをやめるのだ」と説明していました。
なぜな らば、コ-ランにもあるように彼らにとっての異教徒は、もともと心許せる存在ではなく、そんな相手と交わしたたった1枚の紙切れにどんな意味があるのか、 ということです。だから契約書の頭には、「アッラーの神の名において」という言葉が入り、そして最後に「この契約は、もし神が望むならば実行される」とい うアラビア語が必ず入ります。すごい契約書ですよね。
また、アラブ人は人から物を頼まれたときは絶対に「ノー」と言いません。これは一見美談 ですが、自分が知らなくても、できなくても「ノー」と言わないので、たちが悪くなってきます。例えば「Aさんの家にはどう行けばよろしいか?」とたずねる と、アラブ人は知らなくても「この道をまっすぐ行って・・云々」と説明します。アラブ人はうそつきなのか、というとそういうことではなく、アラブ人 の考え方は「終わりよければ全て良し」でなくて「最初よければ全て良し」という感覚なのです。とりあえず目の前にいる人の悩みを解決してあげる=道を知ら なくても今すぐに教えてあげれば、この人は「道がわからない」と言った悩みからは解放される、今安堵させてあげよう、ということなのです。困ったもので す。
イスラム教にとって女性は実に罪深き者たちで、コーランに「ムハンマドは地獄の住人のほとんどが女性であることを見た」と書かれていて、天国には女性の形跡さえありません。 -それで人々はたずねた、
(1)「神の使徒よ、どうしてですか?」
(2)「恩知らずだからです」
(3)「神に対して忘恩なのでしょうか?」
(4)「夫に恩を感じないのと、善行をありがたく思わないからです。たとえ、生涯を通してやさしくしても、何かひとつでも不快なことがあると『私はあなたから、何も良いことをしてもらったことがなかったわ』と言うでしょう」
(5)イスラム教が発生したのが紀元後7世紀であることを考えると、これは驚くべき示唆を含んだ言葉でして、こんな昔から女性の本質をついた、大体、私の経験・から・し・て・・も・・・、ふー、これ以上は身の危険を感じますのでコメントを中止します。

税理士法人SETACS